室町時代に入った三代将軍・義満の時代に、三代関東公方の足利氏満は義満に対して謀反を企て、京都幕府と鎌倉は不穏な状態にありました。そこで氏満は臨済宗の高僧で天皇・幕府に信頼の篤かった夢窓国師の高弟である古天周誓(こてんしゅうせい)和尚を使者として対立していた室町幕府との和睦を図りました。和睦が成立し功のあった古天和尚のため氏満は、堂宇を整備し、将軍「義満」と自身の名「氏満」双方の満をとり康暦元年(1379)寺号を「萬満寺」と改め、臨済宗に改宗しました。
その後、天文6年(1537)京都 紫野の大徳寺96世・謹甫宗貞(きんぽそうてい)和尚に帰依した小金城主・高城胤吉は謹甫和尚を迎えるために伽藍を復興し、馬橋村700石を寄進して臨済宗大徳寺派となりました。
江戸時代には歴代将軍より70石の寺領を受ける朱印寺として栄えますが、明治の廃仏毀釈や明治41年(1908)、汽車の煙火による大火で伽藍や仏像、数多くの寺宝を失い、さらに戦後の農地解放で寺領の殆どを失ってしまいます。
しかし、歴代住職の努力と徒檀信徒の協力により昭和62年に新本堂が落慶し、諸堂も少しずつ整備され水戸街道きっての古刹としての面目を徐々に取り戻しつつあります。
【参考】 萬満寺の紹介(清心のページへ)